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考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

考える面白さはこの上なく美味/意識・人間・心・世界・なんでも・霊魂研究/世界は大激動し始めた

デカルト/世界哲学

*知性、論理、思考、意味、イメージ、意識、心、本質、質、味わい、価値、生物、世界、宇宙、などの研究#140~148*イメージ思考でいこう*


このブログは基本的に、イメージスケッチであって、イメージ思考によってでてきたものを、書きなぐっているだけです(たまにはメモしたものも使いますが)。
ですから特に続き物は構成されていないことがよくわかります。

で、今までに書いたものや、今のこのシリーズに、さらにつけ加えたいことなどを、今回も書きます。




昔の哲学は


昔の哲学は、神が主体であった、といわれています。

それは宗教の影響が強かったのでしょう。

あるいは、そういった哲学者たちにいわせれば、「神は実在する」なのでしょう。

世界一級の哲学者たちが、そうだったのですが、現代人の多くは、それを笑うのでしょうか。

デカルトは、神の存在証明をしています。

それはキリスト教の影響においてなされたのでしょうか。

しかもデカルトは、霊魂の存在の証明にまで至ったようです。

霊魂はあるということは、転生もある、としたのでしょうか。

キリスト教は初期を除いて、転生はないとし、再生と、地獄・煉獄での霊魂の生、天国での霊魂の永遠の生、などといったことを主張しているようです。

デカルトはそういったことについて、どういった結論を導き出したのでしょうか。


さて、世界哲学(⊃質の科学)では、「意識」を主体にして世界観を構築しています。

こんなふうにです。

この世界でもっとも重要なのは「意識」である。

なぜなら、「意識」がないと、この世界はないにひとしいからである。

ちょうど、映画が上映されていても、それを観て意識し味わう人がひとりもいなければ、その映画はないようなものだ、といえるように。

注)その映画をつくったのは大自然だとします。
あるいは、大自然をその映画に例えた、といってもよいでしょう。

注)その映画をつくったのは人であるとしたばあいでも、その人が、観客なんていなくても、つくっただけで満足だ、と思っているとしても、そういうことを思って意識し味わう「意識」がそこにあるわけであり、そこに意味・意義があるわけであるから、やはり「意識」がこの世界でいちばん大切である、という立場はやはり成り立つといえます。

注)仮に、大自然をつくった存在に意識があって、
「我以外には、意識ある存在なんてなくてよい」と思っているにしても、我々人類にはそんなことはまったくわからないし、我々人類にも意識を与えよ、と思うはずであるから、やはり「意識」がもっとも重要である、といえます。
それにその条件で、大自然をつくった存在も、「やはり、意識ある存在がたくさんいないと、寂しいし、やる気はでないし、面白くないし、なにもする気がなくなる」などとなっていくにちがいないでしょう。

その「意識」というのは、人間のばあい、脳の小さな一部に対応しているようにみえます。

意識の存在する実体を「意識の主体」と名づけます。

(それは、脳の中心部あたりの網様体にあるのかもしれない。
そこに「意識の主体」がありそうです。この項はまちがっていてもこの論の正否には関係ありません。それらについては詳述しました。ちなみに、デカルトは脳の松果体に霊魂が宿っているといっています。松果体のすぐ近くに、意識の水準を司る、その網様体があります)

「意識の主体」というのは、「意識が生じる器」のことです。

この段階では、「意識の主体」は、脳の回路のようなものかもしれないし、霊魂と呼ばれるべき存在かもしれない、という立場にたつのが妥当です。

1)意識の主体には、行為・体験によって、それに応じた変化がつく(物理的な事実)。
ある体験をしてつく変化と、それとは正反対の体験を同じ量体験してつく変化は正反対で同じ量である(物理的な事実)。
つまり、ある体験をしたあと、それとは正反対の体験を同じ量体験すると、その変化は元に戻る(物理的な事実)。
その変化が戻されないと、変化が限界に達して、意識の主体は壊れてしまう(物理的な事実)。
その変化は必ず元に戻される(公理;この世界でもっとも重要な意識の主体を守り壊さないための仕組みがある。あるいは、体験には正と反が同じずつあるので、確率的にもそういえる)
よって、人は皆、ある体験をしたら将来必ずそれとは正反対の体験を同じ量体験することになる。

2)任意の人(どの人もすべて。すべての人が一人一人)の死後、その人の意識の主体とまったく同じ人が生まれてきたら、それはその人の転生である。
それについて、まず、意識の主体という器(ハードウェア)は脳の一部である、という立場にたって考えてみましょう。
その立場では、意識の主体の総数よりも、生まれてくる人間の数の方がはるかに大きいからそういえるのです(計算するとそうなっている)。
もっと詳しく説明します。
意識の主体が脳の一部である回路のようなもの(物質の組織)だとすると、そこの物質の元の組合せから、意識の主体のちがい(Aさんの意識、Bさんの意識、Cさんの意識・・・)というものが生じていると考えるしかない。
その物質の元の組合せの総数(意識の主体の総数はそれよりも少ない)を計算してみる。
そういった元の総数が桁外れに多い人体(人)の可能な総数を計算してみると、その総数は、意識の主体の総数よりも、桁外れに多い。
ということは、今までに生まれてきた人の総数が、意識の主体の総数を越えてしまっているとすれば、同じ意識の主体をもっただれかは、転生していた、ということになる。
その越えた程度が、何倍もであれば、すべての人は転生してきている、と、ほぼいえる。
その越えた程度が、何倍も、をはるかに越えていれば、確実に、すべての人は転生を続けてきている、といえる。
そういった時点が未来のことであれば、未来のその時点でそういえることになる。
以上が、霊魂のようなものはなく、意識の主体は脳そのものにあるという立場での、転生の証明のようなものです。
霊魂がありそこに意識の主体はある、という立場にたっても同じく、転生はある、となります。なぜなら、霊魂の総数よりも生まれてくる人の総数の方が桁外れに多い、と計算されるからです。

結論として、霊魂はなくてもあっても転生はある、ということになります。


1)と2)を組み合わせれば、すべての人は転生していき、転生を通じて、「体験総量プラスマイナスゼロ」になっていくという結論に至るわけです。

「体験総量プラスマイナスゼロ」になっていく法則を、
プラスマイナスゼロ化則、
精神的貯金と借金の収支ゼロ化則、
体験総量元戻り則、
科学的カルマ、
質時間回帰則
などとも名づけます。



そのふたつの項目は、証明のようなものがあるわけです。

ただし、検証が完全になされているわけではありません。

それらは質の科学の基礎となっており、世界哲学の構成部分ともなっている、といえます。


世界哲学(⊃質の科学)では、さらに






(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)




デカルトにならって


デカルトは、霊魂の存在の証明もしたようです。

それがどういったものであるのか、私は知りません。

そこで、デカルトになったつもりで、それを為してみようと思います。



私は、すべてのこと・ものを疑ってきたが、こう考えている自分の存在だけは、実際に存在するといえる。その存在を疑うことはできない。

つまり、私は考える、ゆえに私は存在する、である。

(それより、私は意識し味わう、よって私は存在する、の方が、より正確だ、ということについては過去に書きました)


その考えている私というのは、私という精神・心である。


さて、その精神・心というのはいったい何か。

精神・心は明らかに物質ではない。

精神・心はどこからきたのか、なにから生じたのか。

それは、完璧な存在「神」からきたのである。

人間は完璧な存在「神」の劣化コピーである。
神は本来、目に見えない存在であるが、その中で物質に翻訳できるもの、つまり、人間のうち、すがたかたち・物質的なものは、目に見え手に触れることのできるものとなっているが、それ以外のもの、つまり精神・心については、神のもっている特性どおり、目に見えないままである。
その精神・心を、かなり目に見え手に触れることのできるものとするために人間には物質的側面を(神が)与えた。
すなわち、表情や感じはある程度その精神・心を表す。

そういった経緯になっており、精神・心だけは神のもっている本来の特性どおり、物質からなっておらず、霊魂とよばれるべき存在である。

それが、霊魂の存在証明である。

(デカルトは、霊魂は脳の松果体に宿っている、とした、というのを読んだ覚えがあります)


こんな感じでしょうか。

いつか、デカルトのその証明と比較してみます。







デカルトによる「神の存在の証明」


デカルトによると、神は存在する、だそうです。

その証明は、だいたいこんなものです。

と書こうとして、記憶があやふやになっているのに気がつきました。

そこで、こうなれば、間違っているかもしれませんが、適当に推量して記してみます。


人間は、完璧な存在の神、を考えることができる。

その神の概念(心でつかむおおまかな内容)はどこから来たか。

それは、神から来たのである。

それ以外にない。

したがって、神は存在する。


うーん、こうだったかどうか。


それとも、こんな感じだったかな。


世界にはいろんな人がいる。

人はそれぞれ、さまざまな長所・美点をもつ。

もちろん、それぞれの人がいろんな短所・欠点ももっている。

そういった人間は、どこから生まれたか。

人間は、完璧な存在「神」の劣化コピーである。

それ以外にありえない。

よって、神は存在する。


これも違ったかな。


というわけで私の記憶がそれに関していいかげんになっています。

みなさんにとっては、どちらの方がより説得力がありますか。

興味を持たれた方は、ご自分で取り組んでくださいますよう。




(時間ぎれにつき続く。イメージスケッチです)(未構成です。推敲してません)



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